ALSの疑い?日記(3)

またしてもずいぶんと長い時間がたってしまった。
ログインIDとパスワードを忘れてしまいそうなのだが、よく忘れないでいられるものだ。
もともとこの話は記録用、と思って綴り始めたのだが、書いていてつまらないので、なかなか更新する気にならないのだ。
もちろん体の状態が悪いので、自然、精神も落ち込み、書く気にならないということもある。
もう大体いろんなことがどうでもよくなっている。
しかし、気分のいい時には少し雑記めいたことも書きたくなるのだが、それにしてもこの話を終わらせないとどうにもならないと思って、結局何も更新しないで終わる。
もともと面倒くさがりやだというのもあるが。
そういえば、ブログやツイッターを始めてみて、自分が、自分を表現することにあまり意欲がない、ということがよくわかった。

さて、前回の話の続きである。
もうさっさと手短に済ませてしまおう。
発症の自覚は2011年夏の終わりごろ(ただしその頃書いた記事を見るとまだほとんど気にしていなかったらしいことがうかがえる)。
初めて本格的に病院にかかったのは2012年4月。
まずこのことはきちんと記録しておこう。
病院で最初に疑われたのは、球脊髄性筋萎縮症というもので、これは遺伝子検査でわかるということだった。
このとき医者が、遺伝子検査(血液検査)をしますがいいですか、とずいぶん大きなことのように念を押して確認したので、僕はおや、と思ったのだが、あとからネットでこの病気を調べてみて合点がいった。
遺伝子に異常があるということは、つまり自分の子どもたちにもそれが受け継がれている可能性が高いということなのだ。
そのことに思い至った時に、僕はうかつにも初めて背筋がきゅっと縮むような思いを味わった。子どもたちにもこんな病気を背負わせてしまったのか、と。
遺伝子検査とは、つまりそれほど大きな、怖いことだったのだ。

結論を言えば、これについての検査結果はネガティブだった。球脊髄性筋萎縮症ではなかった。僕はそのことには正直ものすごくほっとした。
もちろんそうではないということは、僕の病気の深刻さにはまったく関係がないのだが、とにかく子供たちに遺伝子として受け継がれるものではないということは、救いだった。

しかし、そうなると僕の病気は何か、という問題がさらに残る。
結局、いろいろすっ飛ばして言うと(ちっとも手短になってないので本当に飛ばそう)、ほかに特に異常が見つからないので、ALSという診断しかない、ということになった。

ALSというのは、実は(僕も今回のことでわかったのだが)、この検査でこうなればALS、といったような「決め手」がない。
つまり、簡単に言ってしまえば、いろんな可能性を考えていろいろな検査をして、それでも原因がわからない(ありうる可能性は全部排除された)、というとき、最終的にALSと診断されるということなのだ。
まさに原因不明の難病、である。
原因がわからないのだから、そりゃあ治しようもないだろう。

つまり(こんな言い方は医学的には平たく言いすぎかもしれないが)、最終的に原因のわからない筋萎縮は全部ALSに分類する、ということのようだと、僕には理解できた。

ALSの確定診断には、だから時間がかかるらしい。
ネットの情報などを見ると、1年半ぐらいかかる、と書いてあるのもある。
僕の場合、そこまでの時間はかけていないのだから、「確定診断」には至っていない。
それに僕はまだ筋生検という検査を受けていない。
これは筋肉を採取して筋肉自体を調べるという検査で、これをやると何がわかるかと言うと、筋肉自体に病変があるのかどうかがわかる。
筋肉自体に病変がある場合、筋ジストロフィーなどの筋原性の病気だということになる。
逆に筋肉自体には異常がない場合には、筋肉を司る神経の方に異常がある、神経原性の病気だということになる。
ALSは神経原性の病気である。
したがって、ALSかどうかをしっかりと判定するためには、筋生検をやることが多いようだ。
しかし、S先生の話によれば、筋生検をやらなくても、針筋電図や血液検査などから、ほぼ同じことが大体わかるのだそうだ。筋生検はそれを確実にする程度の意味しかない(とは僕のまとめで言いすぎかもしれないが)ので、とりあえずやらなくてもいいでしょう、ということだった。

あと僕の場合、症状の進行が遅いというか症状が比較的軽い、ということもあった。
ALSというには、嚥下障害がやはり一つのポイントになるようだ。
それが僕にはまだ出てきていないのだった(これは今現在も幸いにしてそうである)。

さて、なんだかんだで、話を飛ばす(こればっかり笑)。
その後、知人でお医者さんをしている人から紹介され、某S南K倉総合病院wというところに行ったのだが、ここのK田という神経内科の医師は、これはもうお話にならないひどい医師だった。
大体、患者との予約をすっぽかすのである。そのとき、別のどこかにいたのを、事務の人が携帯か何かでつかまえてくれたのだが、もう移動できないということで、その日はキャンセルになった。それは仕方ないが、その次行ったとき、一言の詫びもなかった。

紹介してくれた人に全然悪気はなかったのだが、というか悪気があって医者を紹介する人もあるまい、僕はまあ、同僚として見る目と、患者(クライアント)から見る目とはやはりずいぶん違うものだな、と、大学教員と同じ現象があることに、興味深い知見を得たな、と思ったものだった。
大学教師も、同僚への対し方と、学生への対し方が、ずいぶん違う人がいるものなのである。

(また、同僚からの評価と学生からの評価が必ずしも同じではない、というのもよくあることだが、それはまた別の話だ。同僚として、つまり社会人として、や、研究者として、あまり評価できない人が、研究のことなどよくわからない学生からすごい人として尊敬されていたりするし、逆に同業者としてすばらしい研究者だと思える先生が、学生からは人気がなかったりする。もちろん一致している場合あるが。結局、授業で話が面白いとか、自分を大きく見せるのがうまい人などに学生は騙されやすい、ということはあろうかと思う。――話が逸れた)

とにかく、そこでは最初のT大学付属O病院と同じ検査をして、結局、わかりませんね、たぶんALSの初期症状だと思います、で終わってしまった。

とまあ、その話は実はどうでもいいのだが、とにかく某S南K倉総合病院のK田という医者の話だけはしておきたかったので、書いた。
せっかくS先生にそのために紹介状を書いてもらったのに、何か無駄に使ったような気分だった。もう別の病院に行きたいからまた書いてください、というのも言いにくい。

そのあと、要するに手詰まり状態だったから、しばらく病院からは遠ざかった。
その間、症状は少しずつ進行していった。

以上が、たぶん2012年の秋ごろの話だったと思う。

今、正確に知るために昔の予定表を確かめてみた。
S南K倉病院に行っていたのは、2012年11月と12月のことだった。
(しかし、これみてびっくりしたのは、昔の僕の予定のぎっちり詰まっていたこと笑。今は毎日何もないのでこんなに違うものかと…。こんなハードスケジュール、今の自分にはもう耐えられんのでは)

ということは、S南K倉のあと、しばらく病院通いをやめたのは、2013年の前半、ということになる。

しばらく間をおいて、しかし僕はまたT大付属O病院に戻ることになる。
どっちにしても症状は進んでいたし、海外に一時滞在するという予定が近づいていたからだ。

O病院にまた行き始めたのが、予定表を見ると2013年5月。
そこでS先生は、ALSの治療薬で、病気を治せるわけではないが、進行を遅らせる効果があると言われている薬がある、しかし値段が高い、ALSは難病指定されている病気なので、認定を受ければ、治療費の補助が受けられる、申請してみたらどうか、と言ってくださった。
あなたの場合には、もうALSと認定して差し支えない診断結果になっている、まあこれは大変な告知だから、本当にそういうことを言うのはアレなんだけども…という感じのことも付け加えながら。

ちなみにその薬はリルテックという。
1錠1000円で、朝晩飲んで2000円、1か月で6万円という薬だ。
しかしこれは、病気が治るわけでも、症状が改善するわけでもなく、「もしかしたら」進行を遅らせる「ことができるかもしれない」、程度の薬である(S先生はそうはっきりは言わなかったが、僕にはそう受け取れるくらいの説明の仕方であった)。
まあ飲まないよりは飲んだ方がまし、くらいのものだが、それで1か月6万円は高い。

こうして僕は役所から用紙をもらってS先生に診断書を書いてもらい、申請を経て、晴れて?ALSの認定患者となった。
ちなみに、申請から認定まで2か月弱くらいかかった。

しかし、実は僕はそのすぐひと月後には、仕事のために日本を離れることになっていたので、その認定医療証は、1回使っただけで、すぐ返上した。
その1回でS先生には出せるだけその錠剤を出してもらい、それをもってこちらに来たのだった。
というわけで、今の僕は医療証を持っていない。

日本を離れてからすでに半年以上が経った。
こっちに来てから、たぶんストレスやなんやらの影響があると思うのだが、急速に症状が進んできた。
この半年で一番困っているのは、ついに左腕にも症状が現れ始めたことである。
前は右手が使えなくても、左を使えばなんとかいろんなことができたのだが、それも難しくなってきた。

今、たとえばティーポットからカップにお湯を注ぐということにも苦労する。
片手では持ち上がらないので、両手を使って注ぐ。
しかしそうすると急須の蓋を押さえておくというしぐさができない。
困ったものである。

日常生活の苦労は、もちろんそれは一例であって、それにとどまらない。
それについては、またおいおい書いていきたい。記録のために。

今日はもうものすごく書いたので、ここでいったん離脱する。