文学性と言い換えてもよい

夜、妻が保育園の委員の打ち合わせを兼ねて近所の奥さんと飲みに出かけたので、息子&娘その2とぼくの3人で夕食。ハンバーグ、インゲンのバター炒め、プチトマト、ポテトのマヨチーズ焼き、冷奴。
ちなみに木曜から娘その1もキャンプで大島に行っているのでいない。明日帰ってくる。

*****************

昨日、と言えば昨日も妻が取材で外に出ていたのだった。
それでぼくがやはり息子の水泳のため、子供たちを二人とも連れて吉祥寺に行ったのだが、帰りに本屋に立ち寄ったら、光文社の古典新訳文庫でハメットの『ガラスの鍵』と塚原史訳のツァラの『ダダ宣言集』(というタイトルではなかったと思うが、うろ覚えなので)の2冊の新刊が出ていたので、ぱらぱらと立ち読みした。

ツァラについては、昔話を始めるときりがないので、とりあえず塚原史訳の「ダダ宣言」がなんと文庫で読めるなんて、そんな時代が来たのだなあという感慨を書き留めるにとどめる。

ハメットは好きな作家である。チャンドラーよりもロス・マクドナルドよりも。それで『ガラスの鍵』新訳にはちょっと注目してしまう。
翻訳者の名前を見て、どうもこの人は解説書きそうにないなと思ったら、予想通り解説は別の人が書いていた。東大准教授の何とかという人(すみません、名前忘れました)。

(にしても、あれだけ長い「解説」のあとにまた「訳者あとがき」つけんでもいいのにと思うが。みっともなくない?)

その解説をぱらぱら立ち読みしていたら、概略こんなような一節があった。

ハメットの作品は、いわゆるハードボイルドとは違う。チャンドラーのような洗練されたハードボイルドを期待する読者は「違和感」をもつだろう。その違和感を「文学性」と言い換えてもよい。(大意)

ほんとにうろ覚えで申し訳ないが、本当はもう少しうまい文章できれいに書いていた。ただ「違和感」を「文学性といってもいい」と書いていたのは間違いないと思う。

うーん、まあ、言いたいことはよくわかるのだが、ふと天邪鬼な気持ちも起こってしまう。
ここで解説者が言う「文学性」って、たぶん「ある種の読者」にしか理解できんのではないかなあ(つまり一種の文学者向けのジャルゴン)。
普通、本当に素朴な世間一般の人が考える「文学性」ってむしろチャンドラーのような(洗練された)作品の方をこそ指すのではないだろうか。

ハメットは、ぼくも最近読み直していないので『ガラスの鍵』のあらすじもディテールも覚えていないが、確か『赤い収穫』よりも、いわんや『マルタの鷹』よりも、もっと荒削りで、もっと「ハード・ヴァイオレンス」な小説だった気がする。「完成」への拒否とでもいえるその姿勢に比べれば、チャンドラーなど「大衆小説」に過ぎないのであって、ハメットの方にこそオレは「文学性」を見る、という姿勢は、よくわかるんだけどね。

まあもちろんどうでもいいことなんだけど。


それにつけても思うのは、「文学性」って言葉は曲者だねってこと。
何にでも使えそうだ。たとえば、

ダウンタウンの漫才は、古典的で正統な漫才の定跡から言えば明らかにずれている。そのずれを「文学性」と言い換えてもよい。
とか(ちょっと例が古いが)。

この「ダウンタウンの漫才」を「北野武の映画」に置き換えてもいいし、「菅直人」とか「Twitter」とか、かなり何にでも置き換えられそう(もちろんそれに続く部分も適当に変えるとして)。最後は、「その〈何か〉を文学性と言い換えてもよい」で締める。
要するに何を「文学性」と考えるかが、ものすごく適用範囲が広くなっているのだな。

昔、付け句っていうのか、何にでもつく魔法の言葉として「それにつけても金のほしさよ」ってのがあったな。これつければ、何でもまとまる連句におけるマジックフレーズ。
例)
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
それにつけても金のほしさよ