仏文科の明治大正の頃

今日は自宅で妻が仕事の写真撮影というので、朝から掃除。
昼過ぎには編集者とカメラマンの人たちがやってくる。
なんだか自分がいるとじゃまな気がするので、昼飯を食いに出かける。オーケストラという店でほうれん草のチキンカレー。
ここは前は違う名前の喫茶店で、女の人が一人でやっていた(と思う)のだが、数ヶ月前から店が変わって、コーヒーとスパイスカレーの店ということになっている。
変わってから初めて入ったが、若い男の子が二人でやっていた。味はまあまあ。ほうれん草がたっぷり入っていて(というかまさしくほうれん草を練りこんだ感じの緑色のルー)うれしい。骨付きチキンもやわらかい。
アイスチャイをつけて1000円なり。
店の男の子たちがまだ接客に慣れていない感じで、ちょっとぎこちない。もっとプロっぽいこなれたサービスをしてくれたらもっといいのだが。

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いったん家に帰り、自転車に乗って宮前図書館へ。
いろいろな本をぱらぱらとめくるが、長谷川郁夫『堀口大學 詩は一生の長い道』を借りてきた。分厚い。600ページを超える大作である。
ぱらぱらと読んでいるが、面白かったのは、早稲田・慶應の仏文科創設のころの話。

(以下、長谷川著からの引用)
「早稲田に露文科と仏文科が増設されたのは、大正9年4月。(中略)9月、フランス留学から4年ぶりに帰国した吉江喬松が仏文科の主任教授となる。西條八十は、恩師の計らいを得て英文科講師となり、大正11年に仏文科講師、13−15年のフランス留学の後、15年5月に仏文科助教授となった」(p.408)

もともと英文学の教師たちが、仏文科を作るためにフランスに派遣されたという話はすでに知っていた。
その後話が三田に移って、佐藤朔の回想記が引用されている。これが興味深い。

(以下佐藤朔『わが回想』からの引用)
「その頃、図書館には、フランス文学の本で目ぼしいものは何もなかった。みな自分でどこからか調達して来て間に合わせていた。教師も学生も学問の研究というより、文学的な趣味をのばすという傾向であった」

「フランス文学科は学生数が少なかった。本科1、2、3年の合併が原則だが、全員出席しても10名ぐらいで、欠席者が多いから、いつもは2、3名だった後藤末雄モリエール講義のときが一番多くて、5名ほどだった」

「その頃、本郷の東京大学の仏文科では「仏蘭西文学研究」というアカデミックな機関誌を創刊していた。辰野隆鈴木信太郎、伊吹武彦、渡辺一夫など錚々たる連中が執筆し、小林秀雄ランボオ中島健蔵のボオドレエルというような瞠目に値する論文が毎号のように掲載された。研究者の陣容は多彩だし、それぞれ豊かな資料を駆使した論考なので、羨望に耐えなかった。それに比べると、私学の仏文科は、質量ともに貧相のように見えた。私はひとりこつこつとボードレールランボーに関する本、それからシュルレアリスムコクトーの作品や雑誌類を註文して取り寄せていた。」
(引用終わり)

「学問の研究というより、文学的な趣味をのばすという傾向であった」というのがいい。
思えばそれが(少なくとも十数年くらい前までは)、早稲田や慶應に連綿と受け継がれてきた「伝統」だったのだ。
「私学の仏文科」が「貧相」で、東大の一人勝ち的状況だったというような話に触れると、「はあー、そうだったんかあ」と感慨深い思いがする。
確かに、まあ小林秀雄ランボオ論はともかくとして、辰野隆(←「ゆたか」と読むが日本語変換では絶対に出ないのでいちいち「たかし」と打っている。これがなんとも許せない気持ちである)、鈴木信太郎渡辺一夫と来ると、初期の仏文学研究を引っ張っていたのは、確かに東大だったのだなあ、と思わざるを得ない。
とはいえ、それも「先に始めていた」者の優位にすぎなくて、それが証拠に、私学の中では比較的先に始めた早稲田と慶應でも、その後やっぱり仏文科から「錚々たる連中」が陸続と輩出したのである。
まあそれも「今は昔」であるが。