過剰と欠如は矛盾しないのだろうか

一昨日、上井草のプールに行ったら、昨日の夜ぐらいからそろそろと筋肉痛になり始めた。歳をとると時間差で来る。
本当は週1ぐらいでせめて行きたいのだが、そんな時間も根性もなく、前回から見ると月1になってる。そんで毎回筋肉痛と。

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先日書いたハメットの続きだが、ハメットの作品の場合、その激しさというのかな、荒削りさが、ある種の過剰の印象を与えると同時に、何かが欠落しているという印象を与える。
つまり過剰の印象と欠如の印象が同居している。
この場合、同じものが過剰でありなおかつ欠如しているというのは論理矛盾だから、過剰なものと欠如しているものとはきっと違うものなのだろうな。
ただ物語において、この両方をつなぐものとして「破綻」というのがある。
何かが「ありすぎても」「足りなさすぎても」、物語は破綻する。
むろんハメットの小説がそこまで破綻しているわけではないのだが、何かしらほんのちょっとした破れ目のようなものを感じさせる、そういう一瞬の隙のようなものがある。

同じように過剰と欠如の両方の印象を一身に体現したものとして、北野武の映画もそうだろう。

と、そう書くと、両者の共通点は「暴力」だということに気づいた。
「暴力」は、何かの過剰であり、何かの欠落でもある。

愛の反意語は憎しみではない、というのはフロイトの言葉だそうだが、「過剰」の反意語も「欠如」とか「不足」ではなくて、別の何かなのかもしれないな。
むしろ「バランス」とか「均整」とか。