文化か言語か

昨日は家でひたすら翻訳。p.147-157

昼過ぎに子どもたちが帰ってきて、息子が友だちを連れてくる。
娘がスイミング。おばあちゃんに連れて行ってもらう。

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今僕が所属するC学科というところには、まあ大体語学の先生がいるわけだが、専門性からいうと、文化論系と言語学系の2系統に大別される。
文化論系は、大体「第二外国語」の先生たちで、英語の先生たちは(少数の例外を除いて)なぜか(?)言語学系にまあ大体属している。
言語学系という中に異文化コミュニケーション系も含んで僕は考えている。その意味では、「言語学系」というよりも「コミュニケーション系」とでも言った方がいいのかもしれないが)
僕自身は当然、二外なので「文化論系」に属するわけだが、自分自身の専門性というか興味を改めて振り返ってみると、自分は「文化」なのか「言語」なのか、と考えると、僕はどうも「言語」なのである。
もちろん「文化全般」というか人間の営みといったものに、いわば深い意味では大きな興味を抱いているが、表層的な「文化論」にはあまり興味がない。
一応、フランス文化論などを講義しなければならないし、それなりにフランスの社会や政治なども知っている(ふりをしている)が、サルコジだのドヴィルパンだのといったことは、実はほとんどどうでもよいのである。
僕は結局「言語」の問題にしか興味がない。
といっても、いわゆる「言語学」(「科学」としての、少なくとも「科学」を標榜する)を本格的に学んだことはないので、言語学系とも言い難い。
と同時に、いわゆる「異文化コミュニケーション論」みたいなものも、基本的に浅はかなものが多いと思っているので、そちらにも大して興味がない。
というと残るは言語哲学みたいなことになるのだが、これも「哲学」を本格的に学んだことがあるわけではなく、難しい哲学書を読めるほどの頭もない。
結局、自分には文学しか残らないのだが、この文学(確かに「文化」と「言語」の交錯するところではある)というものを、今自分のいる学科・学部で持ちこたえる(旗印として掲げる)のは結構厳しいのである。

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獣の奏者IV 完結編』読了。
うーん、やはりこの物語は前二巻で尽きてるな。
結局3巻と4巻は惰性で読み切った。
(以下ネタばれ含む、注意!)
戦争とか政治とか、現実の重さのある主題を扱うのは、この作者にはあまり向かないのではあるまいか。というか、エリンの物語は、そういうこととはそぐわなかったような気がする。そういうことを、脇に置いて成立していたというか。
それが3、4巻では正面に据えられてしまったからね。
ラスト、ほかの解決策だって冷静に考えればあったはずで(たとえば音無し笛を吹くのなら、別に上から墜落してこなくても、あるいはリランに耳塞ぎをさせてから、とか)、これはもうラストだから死なせるしかないという感じが見え透いたような気がしてしまった。まあ自分が引き起こした災いに、自分で責任をとろうという一種の「自殺願望」がエリンにあったからだろうが、しかしそういう「自殺願望」はない、とそもそもその前に息子に言っていたはず。
そのほか、いくつかのプロットがきちんと解決されないままほうりだされているところもあるし、それに謎は、前作の謎は解明されたかもしれないが、新たに謎が増えたりしてもいる。たとえばなぜ人間の手で繁殖させられた闘蛇だけが狂うのか、とか。その違いは。
だから物語としての出来もいまいち。
ただし、2巻まではいい。それはお薦め。

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今日(11日)、翻訳p.157-162のとっかかりまで。
翻訳は、割合すいすい進む時もあれば、どうにも進まない時もある。
2ページほどやってペースがつかめてくれば、そのあとぐいぐい一気に行く感じだが、最初にペースに乗るまでがきつい。