ダンスが演技であるように

先日、娘のHipHopの発表会を見に行ったことは書いた。
基本的に子どもたちの発表会なので、お遊戯程度のものが多いのだが、中にはキッズといってもかなり上級者もいて、あれは高校生ぐらいなのかな、高校生も一応キッズとかジュニアとかの枠内に入るらしい、そのグループのダンスは結構見ごたえがあった。
ダンスの良しあしなんて素人の僕にはわからないし、プロからしたら全然下手とか言われてしまうのかもしれないが、アマチュアの(でも)上手い人というのを見ると、ときにプロを見るよりもよく見えてくる(悟らされる)ものがあったりする。

たとえば相撲。僕は相撲にはまったく興味がないが、たまたま大学相撲とか、アマチュアの試合をテレビで見たりすると、大相撲を見るよりその強さとか弱さとか、そこにいる人たちの技量や体力のすごさが、かえってよくわかるような気がする。言いかえれば、大相撲はすごすぎて、どうすごいのかが素人には分かりにくくなっているのである。アマチュアの相撲は、もう少し「野蛮」なので、強さが実感できる。

たぶん体操競技とかフィギュアスケートみたいなものでもそうじゃないかな、と思う。プロまでもう一歩というようなアマチュアのスケーターを見ると(あ、この言い方は変か。スケートの場合、最高峰のオリンピック選手はアマチュアだからな)、とにかくそういう最高峰の選手を見るより、その一歩手前みたいな選手を見る方が、かえって「すげえ!」と思ってしまうような、そんなことがあるような気がするのである。(いや、だからプロは「すごすぎる」のだが。何度も言うように)

で、話を戻すと、ダンス発表会で、幼児や小学生の出し物の後で、その高校生たち(たぶん)の踊りを見ていて、「おお、そうだ、すげえな、ダンスってこういうものなんだよな」と深く感じ入ったのであった。
何が「ダンスってこういうもの」なのかをもっと具体的にいうと、「ダンスもまた演技(芝居)である」ということだった。そんなこと言うまでもないことだろうけど、小中高のフォークダンス以外自分で踊ったことのない人間には、そのことが、アマチュアの、でも「なりきっている」その子たちのダンスを見て改めて納得されたのだった。
プロの演技(ダンス)は、プロとして初めから見てしまうから、こういうものだとしか思わない(感受性が鈍っているのだよな、つまり)。だけれども、小学生のお遊戯にまじって、高校生が「なりきった」演技を見せてくれると、そのことがよくわかる。
そう、ダンスもなりきることが必要な、芝居、演技なのだ。それはお笑い芸人のコントやフィギュアスケーターも同じ。
変に照れたり、へらへらニタニタしていたら、とても人様に見せられるものにはならない。
歌を歌うこともそうだということはよく知っていたけど、ダンスもそうだということがよくわかった(それはつまり、自分があんまりダンスなんか見ることがないということなんだな。歌はよくテレビで見られるけど)。
で、実はこれは前置きで、ここからが本題。そこからさらにどういうことを考えたかというと、要するに文章を書くということもそうなんだろうな、ということ。
日本語には「言文一致」なんていう文学史的には広く知られた言葉があって(それには議論がいろいろあるにしても)、「話すように書け」なんていう(これは本当はかなり高等な技術としてだったのだろうが)作家も昔いたし、大体学校教育で、「思った通りに素直に書きましょう」みたいな作文教育がはびこったりしているから(小学生には初めはそういうふうにしか教えようがないのも事実だが)、私たちはみな、文章を書くというのは、「自分の気持ちをそのまま書く」みたいなものだと思い込んでいる節がある。小説なんかは、あれは特別なもので、と。
けれども、小説であろうと日記であろうと、もちろん手紙であろうと、文章を書くということには、すでに一種の演技性がある。(「がある」なんて言い切りは、そもそも普通はしゃべるときには言わないし)
なんというんだろう、そういう一種の「けれん」というか、「見得」というか「ふり」というか、そういうものを私たちは文章を書くときみんな持っているのではないだろうか。
要するに、書くときわれわれはみな「書く主体」としての演技者になっている。
文学理論的に言うと、それは「作者と語り手を混同してはならない」という原則と一致することになるのだけれど。
書いているのは素の私ではなくて、私が文章を書いているときになっているところの私、ってなんだこの言い回しは(笑)。
つまり文章を書くとき、「私」は歌を歌う人やダンスを踊る人、コントを演じるお笑い芸人のように、ある役を演じているのである。私が私を演じているといってもいい。私は「書いている私」を演じているのである。だから、書くときには、「なりきる」ことが必要になる。
小学生のダンスがお遊戯なのは(中には幼児にしてすでに舌を巻くほど上手い子どももいるが)、素の私と役になりきっている私との区別がついていないからである。
同様に、小学生が中学、高校、大学と、次第に学年が上がるにつれて、書く文章が変わっていくのは、「なりきる」ということを覚えるためである。(と、ほら、この「である」という言い回しを、子どもは中学生ぐらいから使うようになっていくではないか。これが、平たく言うと、文章を書く私に「なりきる」ということである)

とかなんとか・・・
そういうことはぜぇーんぶ当たり前のことなのだけれど、文章技法とか文学理論とかで、歌やダンスの演技性との共通性から説明したものはないような気がしたので、つい長々と書いてしまった。

いずれにしても、書くということそのものに含まれる演技性という視点を忘れると、「言文一致」とか「思ったように書く」とかいう言葉づらに振り回されて、下手のつぼにはまることになる。

これ、何かに使えないかな。「書くことそのものに含まれる演技性」の視点で分析できそうな作家、結構いそうな気がするんだけど。