日本人の脳に主語はいらない?

疲れる・・・
授業が始まるとさすがに疲れるが、それ以上に、今の職場に様々な難問が山積みであることがわかって、それが次々と押し寄せてくる現実に疲弊している。
あんまり更新できないので、ふと、昔書いた文章を思い出して、代わりにアップしてみようと思った。
情報としては古いものだが、本の感想なので、不都合はないだろう。だから下の文の「最近」というのは本当の最近ではない。

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最近2冊の本を続けて読んだ。特に意図することもなく選んだ2冊だったが、その内容が偶然にも実によくリンクしていた。
まず一冊目は、月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ)。著者は東京電機大学教授で、人工知能を専門とする人らしい。
まえがきのところでこんな文章がある。「私は人工知能の研究をしていたが、数年前に人間並みの知能を実現するには「身体」が必要であるという考えにいたった」。
実は内田樹氏のブログでこの部分の引用を読んだことが決定的となってこの本を即座に買い求めたのだった。
ほかにも、想像するとは仮想的身体運動である、とか、人は言葉を理解するとき、仮想的身体運動を行っているとか、そういう指摘は実にスリリングで面白かった。どれももっともだと思った。
ただし、「言葉の意味とは仮想的身体運動である」というフレーズの意味がよくわからない(「意味=仮想的身体運動」なのではなく、意味を理解するという行為が仮想的身体運動なのだ、とか、あるいは意味を理解するという行為を行っているとき、われわれが行っているのが実は仮想的身体運動なのだ、と言うべきではなかろうか)。
実は、本全体として、今挙げたいくつかの指摘以上に面白い箇所はほかにはなかった。
中でもこの著者の主張の致命的な欠点と思えるのは次の点である。(忘れないうちの備忘録なので、手短に書いておく)
著者は日本語・ポリネシア語グループと欧米語グループとを比較し、母音を左脳で聞くか右脳で聞くかという区別から、母音をどちらの脳で処理するかが、主語(および人称代名詞)を省略するかどうかにかかわっていると論証していく。この論証過程自体は面白い。なるほどこんなふうにデータから迫っていくのか、という感じである。しかし、母音を右脳で処理する(たとえば)イギリス人が、脳の自他分離の機能を持つ部分を刺激するので、必ず主語や人称代名詞が発するようになるという説明は(かなり短絡的ではあるが)それ自体としては納得するとして、その後で、どうもよくわからないことが出てくる。
著者はたとえばこんなふうに書いている。
「主語や人称代名詞が必要な言語現象は脳によるものなのである。主語や人称代名詞などのソフトウェアは、脳というハードウェアに依存するのである。しかし、この依存は先天的なものではなく、後天的なものである。イギリス人の子どもでも、日本語を母語にすれば日本人と同じになる。このような性質は日本人に固有なものではない。日本語の音声の性質である」(p.201)
つまり、上で述べた脳の違いは、民族的な違いではなく、言語によって作り上げられたものだということだ。当たり前だろう。そうであるに違いない。しかし、例えば英語を話すから母音を右脳で処理するようになり、つまりは主語や人称代名詞を省略せず必ず発するようになるのだ、といったその後で、「だから」そのような脳を持っているために英語では主語を省略しないのだ、というのでは、説明が循環してはいないだろうか。
英語を話すからそのような脳になるのであり、そのような脳だから英語のような言語を話すのだ、ではまるっきり説明になっていない。
これはずいぶん戯画化した要約を私が意地悪でしているように見えるかもしれないが、実際に著者は、上記の脳の母音処理の特性と言語の特性を結びつける論証をやった後、特に200ページ目辺り以降、今度はその論証の順序を忘れたかのように、かなり積極的に、イギリス人はこういう脳だから英語はこういうふうなのだ、日本人はこういう脳だから日本語はこうなのだ、という式の説明を次々と繰り出している。しかしそもそも「そういう脳」が「こういうふうな英語」や「こういうふうな日本語」によって形作られた、というのが当初の説明の順序だったのではないのか。
はっきり言うと、この本の204ページ以降212ページまでの記述は、調子に乗って筆が滑りすぎたという感がありありで、不要だろう。ほとんどつまらないごたくである。
さらにその後の最終章「文法の終焉」も、構想の遠大さの割には、しごく表面的であっさりとした記述で終わっており、ここはまだまだこれから著者が展開していくための準備的なものかもしれないが、中途半端にメモ書き程度のことを書くぐらいなら、ばっさり削ってもよかったのではないか。

なお、もう一冊の本というのは、井崎正敏『〈考える〉とはどういうことか?』(洋泉社)であったが、もうエネルギーがないので、手短に書いておく。
これも期待したほどには面白くなかった。「ロジックはレトリックの一部である」という一節に引かれて買ったのだが(これはかつて僕自身が言っていたことだ)、結局、「考えるとはどういうことか」はわからなかった(わかるはずがないが)。レトリックの整理にはよかったが、基本的には言語学とレトリック論と論理学の上澄みを適当に結び付けてうまくまとめたという書物。上の本とどうリンクしていたかというと、まあいろいろあるのだが、一言だけで言えば、言語の(あるいは人間の認識活動の)根源には「身体」があるということ。言語もまた身体なしには生まれない(発達しない)ということが言えるのかもしれない。その認識だけは、この二書と僕とに共通している。
(2008.6.5)