訳読せずに討論?

先週と同じような金曜日。抜け殻状態となって昼寝3時間。
相変わらず疲れている。月曜から木曜がやっぱりきついのだなあ。
昨夜は2年生のクラス飲み会。天候のせいかドタキャンが相次ぎ(結局みんなあんまり乗り気じゃないんだよな)、人数はちょっとさびしかったけど、その分参加者のmoralは高くて、みんな仲良くなれて、いい会でした。
それにしても、来るって言っておいて急に来ないのはやめろよなとちょっと不愉快。
(まあ幹事は僕じゃないんだけども、結局ああいう店では直前にキャンセルしても人数分金とられるので、僕が8人分くらいの料金を払った。まあもとから多めに出すつもりだったが、その分が参加者の金額を減らすことにはなんら貢献しなかったのが不愉快なのである)

先日と同様、何も書けない代わりに、またもや昔書いた文章をアップしてみる。このままパソコンの中に眠っているよりは、と。例によって情報は古い。

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とあるICUの教授が朝日の東京版の「キャンパスブログ」という連載でこんなことを書いていた。

見出しは「50ページ訳読せずに討論」。

冒頭で、鶴見俊輔の言葉を引きながら、日本の英語教育を批判する。何年もやっていて書くことも話すこともきくこともできない、というおなじみの英語教育批判である。

「いまだに日本中の大学で旧態依然とした講読中心の授業がなされている」
「英語の運用能力など身に付かないし、そもそもそれを目的としていない」
とこの教授は書く。

それに対して、ICUではこうである、というのが彼の自慢である。
ICUでの英語教育は、1クラス20人の学生を相手に(・・・)英語の言語環境を当たり前とする日常を作り出していく。(・・・)そのクラスのすべてで日本語は使われない」
「例えば、リーディングの授業では、いわゆる訳読はまったく行われない。4、5人の小グループをつくり、宿題として読んできた一回30〜50ページほどの課題文の内容について英語で議論する。(・・・)こうしたことを1学期に10週間ずつ3学期を乗り越えたとき、英語に対する恐怖感は消え、自然体で話し発想できる英語力が身に付く」

こういう授業がすばらしいものであることは私も疑わない。この授業自体を、批判する気持ちは私にはまったくない。
ただ、この教授が忘れているのは、大学でこのような授業を行うことを可能にしているのが、高校までに彼の学生たちが培ってきたまさに「読解力」(=訳読の力)だということである。
ICUに入るほどの学生たちである。英語はとことんやってきたに違いない。しかもそれは、たぶんある程度の例外を除いて、基本的にはいわゆる日本の英語教育、訳読中心、文法中心の英語ではないだろうか。

語学教師のはしくれとしての偏見を披露させてもらうなら、一体、どこの何語であれ、その言語で議論ができるほどの語学力を養うのにもっとも有用なもの(必要なもの)は、読解(訳読)の訓練である。読む力が十分についていない人間に議論もへったくれもない。

ICUのいわゆる「リーディング」の授業での、30〜50ページほどの課題文を読んで議論する、という活動を支えているのは、まず何よりも彼ら学生たちが、その量の英文を読んで理解できるという英語力をもっていることであろう。

きっちりと文の構造と単語の意味を押さえて文章の内容を読み取っていくという訓練なしに、とにかく大量の英文を(意味も分からず)英語のまま呑み込ませて、しゃべることさえ強要しておけば、いずれはみんなしゃべるようになるのだ、とでも受け取られかねない趣旨のことを新聞紙上で堂々と主張されるのは、日本の英語教育にとってもずいぶん迷惑なことではないだろうか。

この教授のような授業は確かにすばらしい。よい授業である。ぜひともそういう授業を大学で増やしてもらいたい。しかし、その返す刀で「訳読」を切り捨てるのは、自分が立っているはしごの足を自ら切り落としているようなものであろう。

(2008.11.18)