愛もないのに語る人々

図書新聞2981号で、巻頭の白井聡と白石義治という人の対談を読んでいたら、白井さんという人の方がこんなことを言っていた。


「なぜ現在の日本に嫌な空気が漂っているのか。対象に対する愛がないくせに、ある対象について語りたがる人間が多すぎる。例えば、相撲界で野球賭博問題が浮上し、NHKが同時中継の中止を決定しました。受信料を払っている視聴者からの「中止しろ」という声を無視できないというわけで、そういう結果になったのでしょう。しかし、そのような抗議をする人は相撲が好きではないのだと思います。私は相撲が好きなので単純に中継が見たい。愛ゆえに見たい。白鵬が「国技を潰す気か」と言ったようですが、その通りですよ。許しがたい。「お相撲さんと暴力団関係者に付き合いがあったことによって、あんたはどういう損害を被ったと言うんだ? 興味がないなら黙ってろ」と言いたい。相撲に対して本質的に興味のない人が市民的常識とやらを振りかざして批判する。現代日本において市民とは、私の定義では、ある対象に対して愛情も関心もないのに利いた風ないっぱしの口を利きたがるおかしな連中のことです。その発言力がやたらに大きくなっているんですね。」


一読していやまったくその通り、と思ったのだが、今書き写していて、もう少し微妙な気がしてきた。
僕は相撲が好きではないので、中継がなくなってもどうでもいい、というかむしろなくなってくれた方がうれしいのだが
(野球が好きではない人が、シーズンになるとやたら毎日野球中継ばかりなのを苦々しく思う感じに似てると思う。もう少しひっそりとなら別にいいのだが、でーんと大きな顔してあるとやっぱり邪魔なのだ。別にうらみはないけれど)
それはともかく、相撲中継やめろというのは、きっと相撲が嫌いな人が電話かけたりしたんじゃないかなあと思ったんだけど。それか、なーんか不愉快だった人だよね。相撲取りたちのことが。関心ない人(僕もそう)は、わざわざ声をあげたりしなかったと思う。
それはそれとして、一般論として「ある対象に対して愛情も関心もないのに利いた風ないっぱしの口を利きたがる」というのは、確かにその通りだと思う。
ただ、それを助長しているのが、「良識派」を気取る新聞やテレビなどのマスコミなのが深刻。A新聞とか、どーも「市民的常識」ってやつを代表しすぎではないのか。最近の小沢批判とか。(別に僕は小沢派ではないが)