クッツェー『恥辱』

先日、近所の図書館に娘と行き、彼女が最近はまっている星新一の本を何冊か借りるのに併せて、僕もふらりとJ.M.クッツェーの『恥辱』を本棚から取り出し、借りてきた。
ずっと前から読みたかったのだけれど、ずっと読む機会のなかった本だ。
読み始めたら面白くて二日で一気に読んでしまった。こういう作家は好きだな。何だろう、とても洗練されていて、作家的に大人だという気がする。それでいて自分で自分を完全にコントロールできるとも信じていない。自分の「未熟」を冷静に引き受けている。つまりそこが「大人」だということなのだが。

ところで、この翻訳者、僕は前々から好きで信頼している翻訳家なのだけれど、というのも『嵐が丘』をこの人の新訳で読んでやっぱり一気読みしたからなんだけれど、どうもこの『恥辱』の日本語は今ひとつ肌が合わなかった。
それでちょっとネットで検索して見たら、『嵐が丘』の訳は一部でかなり貶されているのだね。
嵐が丘』を気にせず読んでしまった僕としては、そちらの方はよくわからないけれど、『恥辱』ではいきなり冒頭の一文からつまずいてしまった。


「五十二歳という歳、まして妻と別れた男にしては、セックスの面はかなり上手く処理してきたつもりだ。木曜ごとに、グリーン・ポイントへ車を走らせる。午後二時ぴったりに〈ウィンザー館〉の玄関ブザーを押して名乗り、なかへ入る。113号室のドア口で彼を待っているのは、ソラヤだ。(中略)ソラヤがバスルームから出てきてローブを脱ぎ捨て、ベッドにいる彼の隣に滑り込んでくる。「逢いたかった?」と彼女は訊ねる。「ああ、逢いたくてたまらなかった」と彼は答える。ソラヤの陽灼けを知らない淡褐色の肌を撫でる。その体をゆっくりと倒していきながら、胸にキスをする。ふたりは愛を交わす。」(p.3)


この冒頭の一文、これはふつう一人称の書き方ではないかと思う。もちろん、翻訳調を避けるために、あえて主語を省略した文にして、擬似一人称的な書き出しで始める戦略は理解できる。小説の語り全体も、三人称でありながら実際は主人公に完全に焦点化した実質的な「一人称」だ。
それでも、僕は原文を見ていないのでなんともいえないが、原文が英語である以上、たぶんこの冒頭の一文もちゃんとHeで書かれているのではないだろうか。つまり原文で読むかぎり、こういうわざと奇をてらったような、「だまし絵」的な書き出しにはなっていないのではないだろうか。そうだとすると、日本語でだけ、一瞬一人称かと思うような書き出しをするのは、原文とは違う効果を勝手に付け加えることになりはしないだろうか。
と細かい難癖をつけるようだが、実はそのことは本当はどうでもよい。その後に「彼」と出てきて、そこはスムーズなので、ああこれは焦点化した三人称か、と納得はできるし、こういう書き方がどうしても許されないわけではない。
ただ、この第1段落、ずっと読んできて、僕が引っかかったのは、最後の「ふたりは愛を交わす」の「ふたりは」だった。こんな細かい印象めいたことを指摘してほかの人にも理解してもらえるかどうかわからないが、僕はこの「ふたりは」に違和感を禁じえなかった。一応自分も翻訳の真似事をするので、ここは何か内側から翻訳者の生理をのぞくような感じになるのだが、あ、ここちょっと処理が下手だな、と感じてしまった。
なぜだろう。うまく言えないが、急に視点が変わってしまった気がしたのだ。今考えて見ると、たぶん「ふたりは」という言い方が、完全に外から客観視する捉え方なので、実は偽装した一人称である焦点化した「彼」と違って、ここでは本来使ってはいけない言葉だったからではないだろうか。

とまあそんなことをつらつら考えつつ、というか分析的に考えているのは今で、読んだ時はなんとなく違和感を持ちつつ、という程度だが、数ページ読み進むと、次にこんな文章に出くわす。


「日々、新たな試練に時間を投じようと、コミュニケーション学講座101の手引書に明言されている例の大前提「人間社会は、思考、感情および意図を伝え合うために言語を創りだした」は、まったくの出鱈目であることを思い知る。」(p.6)


これ、「投じようと」という書き出しと文末が呼応してないよね。図書館で借りた本なので、単行本の初版だから、今文庫版ではこういうのは直っているかもしれないけど。

まあ、ほかにもいろいろと気になる箇所はあったのだけれど、もう長くなるので省略。
でも、そんなことを言いつつ、一気に面白く読んでしまったのだから、そういう一気読みさせる日本語力はやっぱり大したものなんだと思うんですけどね、この翻訳者。