授業について

昔、大学1年のとき、どういうわけだか(というか、わけはあるのだけど書くと長いので省略)文学部のくせに理系の学生の教科書である「ファインマン物理学」の1巻をわざわざ買ってきて読み始めたことがある。
結局最初の方しか読まなかったけど。
その序論みたいなところで、ファインマン先生がこんなことを言っていた。
クラスで、一番出来る学生たちと一番出来ない学生たちは同じ教え方でよい。教え方を変えなければいけないのは中間層の学生たちだ、と。
その頃すでに自分が将来教師になることを予感していたのかどうか覚えていないが、なぜかそれを読んだときから今に至るまでこのくだりはずっと心に引っかかったままになっている。
教室で学生たちを教えるようになってから10年。ファインマンの言っていることが未だに正しいかどうか自分では実感したことがないのだが、なんとなく最近思うことがある。

僕は言ってみればこの10年、「一番上の方」の大学と「一番下の方」の大学の両極でフランス語を教え、今はその「一番上」の「ちょい下」みたいなところで教えているのだが、この「ちょい下」の現在の勤務校で、これまでの両極のどちらとも違う「やりにくさ」を感じているのである。
学生のレベルは、ごく端的に言って「一番上の方」と大差ない。少なくとも、教えている実感として、同じように聡明で、同じような質のコミュニケーションのとれる相手である。

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ちなみに、「一番下の方」ではこうはいかない。
(どうでもいいけど、上とか下とかこの言い方繰り返すとどんどん差別的な感じがしてきてやだな。とりあえず単なる「記号」として使ってるだけなんだけど)
彼らは勉強に対して不向きなだけで(僕がスポーツで全国クラスの競技会に出たり、美術や音楽で秀でる才能がないのと同じ)、人間としてはそれぞれに有徳であったり不徳であったりする、まあふつうの(たぶん自信のなさを反映してだいぶ内気な人が多いけど)若者たちである。だけれども、やっぱり、どの程度の難しさの本を読むかとか、ふだんから社会に対する意識の持ち方がどうかといった知的レベルが違うので、同じ質のコミュニケーションはとれないのである。

(もちろん質は違っても気持ちのいい人とのコミュニケーションは気持ちのいいものであることは変わりない。こっちはいわゆる「インテリ」だから知的な会話が出来ないことは多少物足りないにしても)
まあ、そのことを一言で言い表すと、結局、「勉強の出来る人」と「勉強の出来ない人」の違いということになっちゃうんだろうけど。

(挿入終わり)
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その意味では、「一番上の方」(←あくまで記号である)と「そのちょい下」(←あくまで記号である)とでは、こちらの感じ方にはまったく差がない。たぶん勉強の出来もほとんど差がない。
(入試とは本当にめぐり合わせとか紙一重の差なんだなとあらためて知らされる)

がしかし、である。
この「一番上の方」と「一番下の方」では僕は自分の教師としてのスタイルをまるで変える必要がなかった(つもりだ)。もちろん教える内容はまるで違うし教え方も違う。相手の学力が違うのだからそれは当然だ。
ただ何というか、学生への接し方や授業のスタイルを意識的に変えたということはなかったのである。
そして、これは自分にとっても軽い驚きだったのだが、どちらの場でもそれで同じようにうまくいったのである。
ごく簡単に言えば僕は学生に慕われた。いや自慢ではない。ただ端的に言って、僕は学生に対してかなりフレンドリーな教師なので、そのフレンドリーさに見合う程度に学生からも慕われたのである。そのことは、もちろん僕の教師としての力量とは直接には関係がないし、僕が「いい教師」だということも保証しない。ただ学生との垣根が低かった、それだけだ。
自分の教師としてのスタイルが「一番上の方」と「一番下の方」でどちらにも通用し、変える必要がなかったということは、僕にとっては一つの発見だった。

そして今、「ちょい下」のところで、僕は、むしろ自分のスタイルを変更した方がいいのではないかという気がするようになってきている。
その一つの理由は、今挙げたのと逆のこと、つまり学生との距離がこれまでのようにうまく縮まらないということだ。要するにこれまでのように慕われないのだ、ここでの僕は。だがそれだけではない(って加藤周一みたいだな)。
そのもう一つの理由は、学生の学力も伸びないということなのである。
「一番上の方」の人たちは、ほっといてもどんどんやってできるようになっていく。もちろん中には低空飛行なのもいるが、それでも全体としてのレベルはそんなに悪いものにはならなかった。
逆に「一番下の方」では、これは初めからどうやったってできるようにはならない。言い方は悪いけど。もちろんそれなりにがんばる人たちはいるし、こちらもそういう学生には応えて一生懸命に教えるけれども、まあ全体として「可愛いもんだ」という程度に留まる。だから僕は勉強を伸ばすことよりも、彼らを人間として扱い(って変な言い方だな)、ともに楽しく過ごすことを重視した。要するに勉強は二の次にして一緒に遊んだのである。
そしてそのどちらの場合も、僕はかなり多くの学生たちから好まれた(ほぼunanimiteと言いたいくらいだ、実際はそこまでじゃないけど)。

ところが、今の職場で、学生たちは勉強しないのである。
優しすぎるからではないか、と思っている。
彼らなら当然この程度はできるはずと思われるレベルにまったく達してくれない。
彼らには、むしろフレンドリーな教師ではなくて、否が応でもやらされる、鬼教師の方が向いている、という気がするのである。
もちろんやる学生たちはいる。でもごく数名である。そしてそれ以外の人たちのレベルはまるっきり低い。やる気がないのだ。
数名の学生はこれまでの職場でもそうだったように、わりと慕ってくれる。だがそれでも、何かこれまでとは違う壁のようなものが感じられる。ここは、僕がこれまで教師としてしてきた体験と、ほんの少しずれているのだ。ここにきて、僕は初めて、自分のスタイルを変えるべきなのではないかという気がしている。

もちろん学生たちがあまりフランス語に熱心ではないというのは、学校や学部の傾向のせいもあるだろうし、カリキュラムのせいもあるかもしれないから、こういう僕の印象というのは、単なる個別の問題である可能性もある。そもそも僕の体験はまだあまりに少なすぎる。
「一番上の方」として二校、「一番下の方」として一校、そしてその「中間層」として一校だけなのだから。
データとしてはまったく信憑性が足りない。
だから一般化するつもりはないけれど、とにかくそういう感じを僕は限られた体験の中から持っているということだ。
そして頭にあのファインマン先生の言葉がよみがえってくるのである。

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実は明日、学生たちと食事しようよと呼びかけていたのだが、あまりに出席者が集まらなかったので企画がボツになった。ホントいうと予定がフリーになってちょっとほっとしたけど、でも何この学生たちの低調ぶりは。
これでも僕、ほかのところではむしろ誘われてうるさいくらいなんですけどね。ここではこっちから誘っているのにこの始末。この、「こっちから誘う」っていうその状態になってることがすでにほかと違うんだよね。もう負の連鎖に入っているというか(笑)