掃除をする身体

昨夜、突然霊感が下りてきて、小説のパーツになりそうなシーンを思いついたので、別に長編小説に仕上げるつもりもないのだけれど、せっかくだから、さっきちょっと二つ三つのシークエンスをスケッチとして書いてみた。書きながら自分でもちょっと興奮した。
ワーキングタイトルは「3P妄想」というのだが(笑)。

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まあそんなおふざけはともかく、だいぶ前から「トイレ本」としてちびちび読んでいた『橋本治内田樹』(ちくま文庫)読了。
中身はねえ、まあ橋本治が自由すぎるというか、かなりアレな人なので、ほとんど話が噛み合っていなくて、おたがいの受け答えが全部ずれる(笑)。
さすがの「受け身の達人」内田樹も困りっぱなしという感じで、対談内容としては、やくたいもないもの、というしかないのだけれど、しかしさすがに橋本治は天才なので、ところどころで面白いことを言う。
それをいくつか書き留めてみる。
(と思ったら、ほとんど忘れてしまっていて、今ぱらぱらとめくってもどれだったか思い出せない。とりあえずすぐ出てくるものだけにして、おいおい書き足していこう)

//橋本 そうなんです。人は死んだあとじゃないと、論じられないですよ〔中略〕だって、俺、人を論じるときは、必ずその人は死んだことにするんですもん(笑)〔中略〕僕が解説を書くということは、評価が定着しているものであるという前提に立たないかぎりできないから、それはとりあえず殺すんです。だから人を論ずるというのは、いっぺん殺すことだというのがあって、微妙に怖いんです。(p.207-208)//

//橋本 僕はね、なんだか議論とか論争がわかんないんですよ。ぜんぜん違う考えの人を説得しようとするのって無駄じゃない? って思っちゃうんですよ。(p.164)//

//橋本 ・・・掃除をする身体がどこかに行っちゃったんですよね。〔中略〕ずーっと原稿を書き続けるという身体はあるんですよ。原稿を書き続ける身体だけあって他の機能はどんどんどんどんなくなっていくわけですよ。・・・とりあえず掃除をしなくちゃと思って。でも二十分やるともう駄目なんですよ。・・・二週間くらいやって、やっと掃除のできる体というのが、戻ったんですよ。(p.299)//
 ↑この感覚、すごくよくわかる。
 僕は逆に原稿を書く身体とか、研究する身体というのがなくなった(笑)

//橋本 おかしいのはね、大衆化というのは、どうもそういうものらしいんですよね。・・・一昔前ね、拒食症とか、摂食障害になる人というのは、ちょっと美人だったんですよ。・・・ちょっと美人だから、「もうちょっと頑張れば」というのでやって、落とし穴にはまるわけですよ。それでダイエットが一般的になってからは、「あなたは美人ではないのだから、“もうちょっと”で頑張ってもしょうがないのに、なぜ摂食障害になりました?」という種類の人が増えてきちゃうんですよ。それって大衆化なんですよね。つまり美人、ちょっと美人の人が、すごい美人になろうとする上昇志向は、まあ、ありじゃないですか。美人じゃない人が、「ちょっとの美人にだったら自分はなれるかもしれない」というのはすでにまやかしが入っているんですよね。でもそれが大衆化じゃないですか。そうすると量がガーッと増えるから、産業としても成り立つのだけれど、問題もどんどん出てくる。でも産業として成り立っちゃうと問題もどんどん出ていると言うことに関しては、どこかで知らん顔してしまうんですよね。
インターネットの弊害というのも、そういう大衆化みたいなもので、本来参加しない方がいい人が、どんどん参加してきてしまうから、そのことで意味がなくなってしまうのかなあという気はする。こういうことを言ってはいけないのかなあ・・・・・・。(p.282-283)//
 ↑最後、橋本さん本人も言っているように、「こういうこと」はエリート主義思想につながるので、確かになかなか「言ってはいけない」種類の言説なのだが、しかしアマゾンのレビューなんかを見ていると、明らかに「こういう人がこの本について何かを言ってはいかんだろう」というのが混じっているので、つい深くうなずいてしまった。言説空間の大衆化というか、本来「民主主義的」である必要のない空間にまである種の「民主主義」が成立してしまうというのがインターネットのもたらした事態だと思うが、それがときどきなんともやりきれない思いを抱かせるのである。