ジッドの言葉

ヴァルター・ベンヤミンが伝えるアンドレ・ジッドの言葉として、次のような一節がある。

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ちょっと休んでから、ジッドは言った。
「(略)今日のうちにあなたに、ドイツ語に対する私の関係について、いくらか話しておきたいのだ。私は長いあいだ、ひたすらドイツ語と、集中的に取り組んだのだが――(略)――その後私は十年間、ドイツ語に関するもろもろをうっちゃっておいた。英語が私のすべての注意力を奪っていた。さて、去年コンゴで、ようやくまたドイツ語の本を開いてみた。それは『親和力』だった。そのとき私は奇妙な発見をした。この十年間の休みのあとで、読む力は衰えるどころか、かえって進歩していた。その際に」
――ここでジッドは強調の意をこめて言った――
「私を助けてくれたのは、ドイツ語と英語の親近性ではない。そうではなく、私が母語から遠ざかっていたという、まさにそのことが私に、外国語をものにするための弾みをつけてくれたのだ。言葉を学ぶ際にいちばん重要なのは、どの言葉を学ぶかではない。自分の母語を離れること、これが決定的だ。また実はそのとき初めて、母語を理解することになる」
ジッドは航海家ブーガンヴィルの旅行記の一節を引用した。
「島を離れるとき、われわれはそれに〈救いの島〉という名を与えた」。これにジッドは次のようなすばらしい文を付け加えた。「あるものに別れを告げるときにはじめて、われわれはそれに名を与える」
ベンヤミンアンドレ・ジッドとの対話」、『ベンヤミン・コレクション2』ちくま学芸文庫p.451-452)
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ここからはいろいろなことが読み取れる。前半部もすばらしいものだが、さしあたって、この最後の部分にだけひっかかっておくと、この一節は僕に、イ・ヨンスク『「国語」という思想』の序言を思い出させる。
「素朴な話し手が母語を話すとき、話し手は、自分が何語を話そうと意識して話しているのでもないし、(略)
そのような話し手にとって、自分が「○○語」を話していると教えられる知識そのものが本質的に疎外された知識であろう。」(p.i)

あるものについて、われわれはその外に出たときにはじめて、それがなんであるかを知ることができる。
「地球」という言葉・概念は、(想像的にでも)宇宙空間に出て俯瞰的に見る視点があって、初めて十全な意味を持ちうるだろう。
「本質的に疎外された知識」という言い方は、いかにも社会科学系の学者が言いそうな難解な言い回しだが、つまりは、ふつう人は「言語の外」に出ることはない、ということだ。言語の外に出よ、と促されたとき(つまり、あなたは○○語を話している、と教えられたとき)、人は自分の言葉から「追い出される」。つまり疎外されるのである。
しかし、疎外という(否定的な)言葉は使ってほしくない。
むしろこの「外に出る」という経験こそが、言語にとって本質的に重要なのだと思う。
ジッドは、外国語の習得について語りつつ、この「疎外」の積極的な意義を顕揚している。そのことに僕は深く共感する。