「翻訳できないもの」について

翻訳についていろいろ考えるのだが、結局、僕の立場はまずは次の言葉に要約される。
翻訳できるものは翻訳できる。翻訳できないものは翻訳できない。
しかし翻訳できないものは、実は「翻訳」の問題ではなくて、そもそもどの言葉でも「表現」できないものなのである。
説明できる程度のことなら、その時点ですでに「翻訳」はいわば成功しているのだ。
だから、「翻訳できないもの」の問題は、実は「翻訳」の問題を超えている。
たとえば、あまり文学に通じていない人がよく「誰それ(誰でもいいから作家の名)の文章の美しさ(or魅力or余韻or何でも)はやはり原文で読まないと伝わらないでしょうなあ」みたいなことを言うが、そういう人に、ではその「美しさ」とはどんなものか説明してください、と言っても、「いやそれはうまく言えませんが・・・」ということになるに決まっているのである。
要するにそういうときわれわれは、日本語でも説明できないものを翻訳のせいにしているのである。
日本語でも表現できないいわく言いがたい「何か」を表現できないからと言って「翻訳」を責めるのは筋違いというものである。
ヴィトゲンシュタインにならって、おそらくこう言うべきなのだ。
すべて翻訳できるものは明瞭に翻訳できる。
翻訳できないものについては沈黙しなければならない、と。