少女エリンはもういない

体調が悪いのである。
先週受けた重圧を考えれば、その原因は精神的なものではないかという可能性が大きいのだが、まずはやはり疲労であろう。
金・土・日ととにかく眠かった。それなりに眠っているはずなのに、日中ひたすら眠いのである。体がだるい。頭が痛い。要するに疲労、そういうことなのであろう。
ちょっと仕事を休みたいなあ、と思いつつ、今こうして仕事もせずに日記を書いている。
昨日は妻の仕事で千葉のきぼーるという施設へ。前述のような体調なので、かなりきつかった。しかし子どもたちは体育館での卓球という、初めての体験に満足したようである。


さて、金曜日あたりから『獣の奏者Ⅲ 探求編』を読み始め、昨日読み終わった。
一言で言うと、前2編よりもぐっとのめりこみ度が落ちた。なぜだろう。その理由はよくわからない。
単に感想として面白くないということなのだが、その面白くなさの理由を考えてみなければ、単なる悪口になってしまう、というか、続編となるとすぐにつまらないものとみなしたがる(「質が落ちた」とか言いたがる)ある種のファンの言い草でしかなくなってしまう。
けれどもやはり「質が落ちた」とは思うのである。
頭で作り過ぎているからではないか。
冒頭から、結構、理詰めであれこれ考えるシーンが出てくるのだが、これがまず、よくわからない(単に自分の頭が悪いだけか、笑)
何というか、その論理がはたして正しいのかどうか、うまく納得できない。本当に論理的なのかどうかがよくわからない、というか。
まあお話なのだから、そんなことはどうでもよいと言えばよいが、だったらそんなに理詰めにこだわらなければいいのである。
と書きながら、面白くなさの本質的な理由がそれであるとも、実は思えないのだが。
少女エリンの物語には、未知の世界に手探りで分け入るような、わくわく感があった。これから何が始まるか分からない、何がそこにあるかわからない状況の中で、子どもの成長を、まさになぞるようにして、少しずつ視界が開けてくる物語と読書の一体感があった。
だがすでに成長して「おばさん」になってしまったエリンの物語には、どうしても、すべてはもう「与えられたもの」という既視感がある。すべての状況・情報は「与えられて」おり、与えられたその状況・情報の中で、さあどうしますか、という、言葉は悪いが、物語の引き延ばしのようなものだけが展開している。
むろん、この新たな物語の中でやはり謎はたくさん出てきて(ひょっとすると前作よりも多く)、その探求がメインとなるのだが、実のところ、読んでいる人間としては(少なくとも僕は)、そうした「謎」は、「謎」のための「謎」というか、なんかどうでもいいものであるような気がするのである。
確かに本作を読んでいると、前作の説明では矛盾している点があったのだなということには気づかされる。しかし、そんなことは、それこそ「お話」なのだから、僕には大して気にならない。というか、むしろ何もかも説明がついて矛盾がない、というような物語など、別に求めてはいない。物語はむしろちょっとぐらい矛盾している、謎が残る、ぐらいがいいのではないか。
話がごちゃごちゃしていて、爽快感がない、というのも、この「続編」についての感想だが、それもまた、ひとつには政治的な(つまり戦争の)話がメインになっていることが理由だろうが、もうひとつには、やはり理詰めで話を作ろうとしていることともつながっているのではないか。
子どもではなく大人のエリンだから、政治に介入せざるを得ないのである。
前作は、やはり子ども時代のみに許されたファンタジーなのだろうか。

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JF翻訳、p.138-142(あまり進まなかった。体調不良のため)

先週来、目がかゆいのを我慢していたが、一向に治らないので、午後眼科へ。
今まで行ったことのある2軒の眼科がどちらも月曜午後休診なので、少し遠くの行ったことない医者に診てもらった。見た目からして寂れた感じだったが、医師もなんかしゃっきりしない人だった。まあそれでも腕はいいという場合もあるだろうが、どうも名医とは言い難い。

夜は昨年度の1年生ゼミの学生たちとの食事会で渋谷Nosへ。すっかり忘れ去られていると思っていたのに、こうして声がかかるのはありがたいね、やっぱり。
10時過ぎ帰宅。