中山元訳『純粋理性批判』のアマゾンレビューに思う

中山元訳のカント『純粋理性批判』(1)のアマゾン・レビューをたまたま見ていて思ったこと。

(今URLを貼り付けようと思ったら、つーか貼り付けたら、ものすごい気持ち悪い長〜い数字や%記号の並んだものになったからやめる)

評判どおり、中山さんの非常に読みやすい訳に対する賛辞が並んでいるわけで、それはいいのだが、その後でぱっと目に付いたのが、一つ星をつけたレビュアーの
「カントが・・・
訳者のレベルに次元が下がっている。
もはやカントではない」
という書き込み。

別のレビュアーも、この人は五つ星で賞賛派なんだけれども、こういう「名訳」は功罪あるとしつつ、「罪」として、こんなことを挙げる。
(以下大意)
素晴らしいけど、何かが足りない。つまり簡単に訳すというのはある種の言外の含みを切り捨てることになるのだ。岩波の篠田訳は難解だが名訳だと思う。何度となく読み返すに足る美文だ。通読するには中山訳だが、並行して篠田訳や英訳、独語原文を読んでカントの思考の襞に迫る努力をすべきだ。
と。

こういうの読むとね、なんかやっぱり「難しいものをありがたがる」病にかかってる人多いんだなあ、と素朴に思ってしまう。

だいたい訳文で読んだら訳文でしかないのは(われわれ翻訳に携わる人間から見れば)当たり前のこと。
どんな訳文もそれは訳文であって、原典とは別物と見なすべきなのだ。
独語原文で読むべし、という主張は、それはそれで理解できるが、なんか、苦労しなければダメ、みたいな主張はナンセンスだと思う。
いいじゃないの、訳文は読みやすければ。
いや別にこういうこと書く人を批判しているわけじゃなくて、非常に興味深いと思っているってだけなんだけどね。
(まあ最初の一つ星の人のレビューは論外だが)

みんな、自分が昔苦労したという経験のある人は、「最近の若者」が、恵まれた環境の中で苦労なく何かしているのを見ると、あんなことでは身につかない、われわれの時代は・・・ってやりたがるもんだよなあ、という自戒を込めた感慨。
(例えば昔はレポートも卒論もみんな手書きだったわけだからね。挿入とか並べ替えとか、そうそう手軽にできない。かくいう僕も卒論はすでにワープロだったけど)