驚きを隠せない

ものすごく久しぶりだ。今確かめたらもう1ヵ月半ぐらい経ってるじゃないか。前の書き込みから。
しかし話はつながっている。
もう一つ、気になる言葉遣いということで。
いやこれは状況を考えるとあんまり突っ込むのは悪いのだけれど、
よくテレビの街頭インタビューなどで、自分が驚いたということを言うのに、「驚きを隠せません(でした)」とか、自分で言っている人がいる。
これを聞くたびに僕は、「それは自分から言うことじゃないだろう」と突っ込みをいれてしまう。
「隠せ(てい)ない」かどうかは、外から判断することで、これは第三者のセリフではないか。
あるいは、自分からある種のレトリックとして言うとしても、それは、本当なら驚きを隠すべきところなのに、「隠せなかった」という、実質的に意味のある使い方をすべきだと思う。
昨日も夕方のテレビで、「非常に驚きを隠せませんでしたね」と言っている人がいて、「非常に」がくっついているのがさらにおかしかった。
単に「非常に驚きました」と言ってほしい。
とはいえ、テレビの取材でマイクを向けられて上がってしまうということもあるから、そういう状況での発言の揚げ足をとるのはよくないんだろうけれどもね。

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ところで、最近日記を更新できないのは、とにかく授業に疲れてへとへとになっているからである。
今学期、授業多すぎ。

「がんばる」は他動詞か

もう何年も前から気になっている表現の一つに、「〜を頑張る」というのがある。
例えば「今学期は、英語を頑張ります」みたいな言い方だ。
学生たちがよく書いてくるので、ったくもう気持ち悪い言葉遣いしやがってと思っていたのだが、子どもたちが小学校にあがったら、担任の先生まで書いてくるので(「○○さんは、縄跳びを頑張りました」とか)、かなり脱力したものだ。
頑張るって、「〜を」という直接目的語をとる動詞だったっけ?
まあ調べて見ればいいのだが、面倒くさくて調べていない。
大体、日本語の文法は西洋語とは違うから、直接目的語だとか、自動詞・他動詞だとかみたいな区別は意味がないのかもしれないが。
もしかして「漢字練習を頑張りました」みたいな言い方に違和感を覚えるのは俺だけなのか?
たとえば「今学期の期末試験は、だいぶ頑張りました」とか、そういう言い方なら違和感がない。
省略して「試験、頑張りました」「英語、頑張りました」「縄跳び、頑張りました」などは言うと思うが、このとき省略されているのは、「を」ではない、と思う。

明日は都知事選

昨日、都知事選のことを少し書いた。
僕もいろいろ悩んだのだが、やっぱり今回は(も?)正攻法で行くことにした。
だって小池さんが一番まともなことを言っているんだもの。
まともなことを言っている人にちゃんと票が入るということを示したい。たとえ一票でも多く。
その結果、自分の望まない人が当選することになったとしても、それはしゃあない。すみません。バカなんです、都民は。今から言っときます。非都民のみなさん。

昔僕が助手という名の契約職員だったときや、非常勤講師という名のフリーターだったとき、「真面目にやっていれば必ず誰か見てくれている人がいるから」と恩師に言われたものだが、そのときのそれはもちろん気休めでしかなかったとしても、やっぱりそういう社会であって欲しいよな、とは強く思う。
だから、真っ当なことを言っている人には、一票を入れる。落選しても、その一票の意味がその人に届くことを願って。

都知事選の話、明日の今頃はもう結果がわかっていることで、結果が出てから何を言っても後だしジャンケンだから、今のうちにここに書きとめておくのである。

『歯と爪』

沖縄で買ってきたおみやげの「手づくりちんすこう」をぽりぽり食べている。おいしい。
うちの妻はなぜかおいしいものを見つけてくる野生の勘みたいなものがすごい。店でも物でも。
ちんすこうも大体僕はみやげにもらってもそんなにおいしいと思って食べたことはないのだが、これはうまい。
「手づくり」といっても単にパッケージにそう書いてあるだけで、見たところ何も変わりはないのだが。
これはどこだろう、確か恩納の道の駅みたいなところで買ったやつだったっけか。

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今翻訳している(というか翻訳しかけてとまっている)本には文学やら実在の事物やらへの言及がたくさん出てくるのだが、そのなかのひとつとして、ビル・S・バリンジャーの『歯と爪』という推理小説があるので、しばらく前にこれを読んでみた。
結末部が袋とじになっていて、ここで開けずに返品すればお金はお返ししますという趣向で有名なやつだ。
「結末の驚くべき真相!」と帯にも書いているのだが、残念ながら今この時代にこれを読んだ僕としては、この結末は大して意外なものではない。
むしろ初めの方からすでに、ああ大体こういう話なんだろうな、と思っていたのがほんとにそのまま結論だったので、おいおいなんか素直すぎるんじゃないの、と思ったほどだ。それをひっくり返して欲しかったのだが。
この作品の刊行は1955年。
推理小説というのは、「あっと驚く仕掛け」というのがつぎつぎに出てくるので、読みなれた読者は勘が出てくるので、それをさらにひっくり返すのはむずかしいね。

それでちょっと思い出したけど、昔、鈴木光司の『リング』を読んで、その後『らせん』だったかな、続編を読んだ時、『らせん』の結末がとにかく「ひっくり返そう」という意識が強いのか、どんでん返しどんでん返しで、もう複雑になりすぎて、ストーリーがかえってめちゃくちゃになっているような印象をもったものだ。『リング』ぐらいで十分おもしろかった。誰も読んだことがないようなものを書こうという気負いが強すぎてもエンタテイメントはうまくいかないのではないか。

で、話は推理小説の意外な結末に戻るが、僕がこれまで読んだ中であっと思ったのは、やはりクリスティーの『アクロイド』だが、もう一つ、筒井康隆の『ロートレック荘事件』。
これ、ちょっと古めかしいけどかなり傑作だと思う。
ただし映画化は絶対不可能だが。
これと歌野晶午の『葉桜の季節に・・・何ちゃら』というやつは映画化不可能作品。
叙述トリックっていうのはまあ大体映像化不可能だが、もう一つ叙述トリックで記憶に残っているのは、大学時代に読んだ綾辻行人の『十角館の殺人』だったっけか、もううろ覚えだが(って「記憶に残って」いないじゃんか)確かそれで、これもたぶん映像化できないパターンだろうな。しかし詳細の記憶はもう不明。
しかしこれはたぶん今読むときっと幼稚な感じがするに違いない。

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今日の朝日新聞東京版に都知事選候補者の政見アンケートが載っている。一番まともなことを言っているのはやっぱり小池晃氏。
ほかの候補者は「スーパーティーチャー」だの「高度防災都市」だの格好だけはつけた中身のはっきりしないキャッチコピーみたいな言葉ばっかり使いたがって、話にならない。キャッチーで無内容な言葉はいらない。少なくとも小池氏はそういう言葉は使わない。大体、石原は「武道必修化」だのと寝ぼけたことを言っているし、ワタミは「経営」のセンスを訴えている(これは新聞のアンケートではないがポスター等で)。政治や教育(特に教育)にビジネスマインドだけは持ち込んで欲しくない。
もともと、まっとうに考えれば、小池晃氏に入れるしかないことははっきりしているのだが、それでは「死に票」になって石原を阻止できない。勝てる可能性があるとしたら、東国原に乗っかる手しかないが、この男にいれるのもどうかと思う。
おそらく多くの(良識ある)都民がみな同じように考えて困っているのではないだろうか。
投票日は明後日。

『ローマ帽子の謎』

エラリー・クイーン『ローマ帽子の謎』を読んだ。
なぜ今さらこういう古典の本格ミステリを読んだかというと、飯城勇三の『エラリー・クイーン論』が面白そうなので読んで見たいのだが、この本は完全ネタばれ満載の本なので、その前に一応(全部とはいわずとも)ある程度クイーンの代表作は読んでからにしようと思ったからである。
で、『ローマ帽子』であるが、一読してまず一言目の感想は「懐かしい」といったところだろうか。
小中学生の頃、こういう本格推理はよく読んだので(ヴァン・ダイン、クリスティー、そして特にカー)、その同じ匂いがぷんぷんした。
正直、この『ローマ帽』は、今の僕の読書観(?)からいうと、さほど面白くはない。大体長すぎるし(特に第1部)、小説的な興味からいっても、推理もの的な興味からいっても、文体的な興味からいっても、あまり感心しない。
ただそれでも、なぜか「悪くない」のである。こういう懐かしい感じは悪くない。
定年退職したら、毎日クイーンとか未読のクロフツの『樽』とか、フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』とか、もちろんクリスティーヴァン・ダインも、子供の頃読まずに結局今も読んでいない本格推理の古典ばっかり毎日読んで暮らそうかと思ったくらいだ。
しかし、とりあえず一冊読んでわかったが、こりゃ飯城氏の『エラリー・クイーン論』が読めるようになるには数年かかるな。
こういうもの読むより、読まなきゃならない研究、授業関係の本が山積みだもんなあ。

ところで、僕が読んだ『ローマ帽』は創元推理文庫の井上勇訳だが、これはさすがにもう賞味期限が過ぎてしまっているのではないかな。クイーンの〈国名シリーズ〉全作、誰か改訳すべし。

通勤リュック

前からずっと通勤用のリュックが欲しいと思っていたのだが、どうにもピンと来るものがなくて、2年間もそのまま放置してしまっていた。
条件はノートPC(B5サイズ)が入って、A4の書類が入って、そのほかに本が数冊、電子辞書、手帳等が入って、ポケットが細かく色々ついていて、携帯やiPodなどをうまくしまえるようなもの、でなおかつスーツにもカジュアルにも合えばなおよし、といったところだったのだが、この2年間、ときどき思いついたように探して見ると、要するにそういう条件に当てはまるのでよさそうなのは、TUMIというブランドであることがわかった。(いきなりかなりピンポイントな絞り方であるが)
ところが、このTUMI、ウェブサイトを見てみるとバカ高いのだ。
カバンにいくら出すかというのは、その人の価値観によるかもしれないが、僕にはTUMIの価格設定は「ぼってる」としか思えなかった。
「ぼってる」という言葉が悪ければ、ブランドにあぐらをかいて「足元を見ている」のだ。(あ、言い換えてもやっぱり言葉が悪いか)
まあ別に出そうと思えば出せないわけではないのだが、こういう強気な値段でもこちらからほいほい頭下げて買ってしまうみたいに思われるのが嫌なので、何か躊躇してしまうのである。
ところが先日、家族で沖縄に旅行した帰り、那覇にあるDFSギャラリアでTUMIタイガーアイというシリーズのリュックを見てめちゃくちゃ気に入ってしまった。
こ、こ、これは買いたい。値段も3万8000円ぐらいで、うーん、高いといえば高いが、TUMIにしてはリーズナブル。
うう・・・と迷ったのだが、辺りには店員が一人もいない。人っ子一人いない。しかもこちらも時間があまりなかったので、とりあえずスルーして帰ってきてしまったのだった。東京戻って、多少高くても直営店行って買えばいいや、と思ったのである。もし近くに店員がいれば確実に買っていただろう。
ところが(ところがばっかりだな)、家に帰ってネットで調べて見たところ、タイガーアイというのは、なんとDFSギャラリア限定のシリーズだったのである。おお、何ということか。もう買えないのである。また沖縄か、グアムとかハワイとかに行かないと永久に買えないのである。

俺は呪ったね、自分の判断を。なぜあのとき買って帰ってこなかったかと。

まあそんなわけで、帰ってから数日は、ネットでTUMIのサイトを見ながら、この7万のリュック買うかーとか、いや革じゃなくても同じデザインのこっちでもいいかー4万だしとか、でもあのタイガーアイよかったよなあ、とか、うらめしく眺めて暮らしていたのである。
確かにTUMIのリュックはどれも高級そうな、ラグジュアリー感バリバリで魅力的ではある。だがどうも形とか、自分的にはピンと来ないんだよなあ。そういう中であのタイガーアイは別格だった。

まあそれで、結論としては、結局今回TUMIはやめて、もっとぐっとリーズナブルなHEDGRENのリュックを買ったのである。四角いリュックというキャッチフレーズのHGA-16Mで、色はカーキ。価格は10,290円。
なんかいきなりおもいっきりカジュアルな、ハイキング向けのリュックなのだが。
実はネット通販で買ったので、実物はもう少しシックなのかと想像していたのが、実際見てみるとこれは明らかに「アウトドア派」だな。
1万円なら安いと思っていたのだが、この外見はあまり1万円もしそうなバッグには見えない。ただしファスナーの持ち手とかなにげにおしゃれで、細部の仕上げなどはそれなりに凝ってはいる。一応ベルギーのメーカーだから、ヨーロッパ風のセンスなわけか。
このリュックで気に入っているのは、とりあえずノートパソコンが入り、A4のファイルが入り(書類そのものより一回り大きいA4サイズの封筒もぎりぎり入る)、それでいて非常にコンパクトなところ。まさに必要なものが入るぎりぎりの大きさ。
それからもうひとつ、ショルダーの部分に携帯電話用のポケットがついているところ。これだといちいちリュックを下ろさずに携帯が取り出せる。
難をいえば、もう少しポケットがいろいろな細かい収納部分に分かれていたりするとうれしかったかな。
まあコンパクトなリュックで、それでいてかなり容量は入りそうだから、まずます気に入っている。しばらくはこれで通勤しようと思っている。
この1年の間にまた考えて、本当にもっと「ラグジュアリーな」リュックを買うかどうか決めよう。

親とこどもについて、言葉について、教育について

実家で要介護状態となった親に付き添って病院に行ったり、腕を貸して並んで歩いたりすると、頭をよぎるのは「生の順番」とでもいう観念だった。
昔僕を育ててくれた両親が、今は僕の助けがいる状態になっている。
今僕が育てているこどもたちも、やがて僕に対して同じような思いをもつようになるのだろう。
こどもを持つと、自分とこどもとの関係が、自分と親との関係に常に逆照射される。

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昔、うちのこどもたちがもっと幼かった頃、棚の上にあるものに手が届かないとき、「届けないよぉ」と言っていた。
いわゆる可能動詞(読めない、書けない・・・これって下一段活用っていうのか下二段活用って言うのか知らないけど)のルールに当てはめて彼らなりに類推して作った言葉だろう。
文法的には理にかなっている。(俺は親バカか)
今、みんな小学生にあがる年になって、もう誰も言わなくなった。そのことが、言葉をあつかう商売をしている親としては、ちょっとさみしい。

そういえば、一番下の娘が2、3歳の頃、熱々のスープを冷ます(フーフーする)とき、「あったかくして」と言ったのでおやと思ったことがある。
乳幼児には冷蔵庫で冷やした冷たい飲み物などはそのまま飲ませられないので、少しあっためてから与えるのだが、そういうときの「ちょっとあったかくするよ」という親の言い方を覚えていて、彼女の頭では、「あったかくする」というのが「ちょうどよい飲める温度にする」の意として理解されていたのだろう。だから熱すぎて飲めないスープを冷ますときも彼女にとっては「あったかくする」だったのだ。
こどもが言葉を会得していくときのこうした出来事が、語学教師としては本当に興味深い。
もっとたくさんあったと思うのだが、もうあまり覚えていないのが残念だ。

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毎年新入生にレポートの書き方や発表の仕方などを教える入門用のゼミを受け持つが、これまで教えた学生たち、一部を除いてほとんど顔も名前も忘れてしまっていることに気づいて愕然。
たった三ヶ月しかないこともあるが、どうもこの授業はうまく教えられず、僕がこの授業担当しても意味ないんじゃないかと思って、だがすぐ、いやそもそも俺の授業で意味ある授業なんかあるのか、と根本的な疑念に襲われ、もっと愕然。

出来る学生は出来るし、出来ない、やらない学生はやらない。
出来ない学生に対する教師の責任は一定程度あるが、出来る学生に対して、教師の貢献は何もない。
それはもっぱら彼等の「功績」だ。

学校の教師なら誰でも知っていると思うが、学生は教えたって出来るようにはならない。自分の手で掴み取ったものでなければ、本当は意味がない。
それを掴み取らせるべく「触発する」ことだけが教師になしうる最大のことで、それができる教師こそが名教師なのだが、僕のような凡庸な教師は、ただ知識の伝授しかできないために、懸命に「説明」しようとしてしまう。
「説明」には何の意味もない。

学生に、授業内で「わかったつもり」にさせることはたやすい。だがそういう一時の幻想やまやかしではなくて、真に何かを掴み取らせるには、単に「教える」というのではない何かがいる。それはふつうに考える「教える」という行為とは違うものだ。