国名シリーズ新訳刊行開始

半年ほど前、クイーンの『ローマ帽子の謎』について、クイーンの国名シリーズの翻訳はそろそろ賞味期限が過ぎているだろう。誰か新訳すべし、と書いたころがあるが、
(今調べたら、今年の4月7日付の記事だった)
今日、吉祥寺の本屋に入ったら、『ローマ帽子の謎』の新訳が出ているのを発見した。
なあんだ、ちゃんと準備されていたんだ。やっぱり同じようなことを考える人はいるもんだな。
訳者は中村有希さんという方、プロフィールを見たら僕とほぼ同年代じゃないか。サラ・ウォーターズの『半身』の訳者なのだった。(←これ、確か読んだことあるけど面白かった。でもストーリーは忘れた)
発行はついこのあいだの8月30日だから、まさに刊行したてのほやほやで発見したわけだ。(僕はあんまり本屋に行かないのだが)
このあと、国名シリーズが刊行順にこの方の訳で順次刊行されるらしい。くそう、もう何冊か古いの買ってしまったじゃないか。まだ読んでないのに。

とりあえず抜き書き

宮崎駿『風の帰る場所』(ロッキングオン、2002年←渋谷陽一によるインタビュー集)が、最近の「トイレ本」。
これ読むと宮崎駿っていう人が、かなり「激しい」人なんだなあと知る。作品をよーく見ればそのことは伺えるが、トトロとか魔女の宅急便とかポニョとか、なんとなくイメージだけで受け取っている場合には驚くだろう。
その中にこんな一節が。

//「例えば、自分たちのアニメーションが受け入れられるときに、生身の人間が今日本で自分たちが作ってるようなものをやると、人が信用しないんじゃないかと思うんですね。だからアニメーションで薄まった部分とかアニメーションで観やすくなった部分によって成り立ってるんで、そういう弱点も確実に僕らの作品の中にあるなって思ってます。なんかこう、それは生身の人間が愛だの正義だのって言ったら我慢できないけども、絵で描いたものがやってるぶんには――まあ、そのぶんだけ稀薄だから許せるとか〔中略〕まあとりあえず観てみようとかいう気になるっていう、そういう隙間でアニメーションっていうのは商売をやってるところがあって・・・・・・」(p54)//

こういうセリフが宮崎駿から出てくるっていうのがちょっと意外だった。

ついでに、今別に並行して読んでいる本はジェームズ・レイチェルズ『現実をみつめる道徳哲学』(晃洋書房、2003年)で、これはなかなかよくて、1年生のゼミで使えそうな感じで、ふむふむと読んでいるのだが、その中のさっき読んだ一節を。

//人が理論を作ろうとするとき、そうする最も強力な動機の一つは単純性への欲求である。何かを説明しようとする際に、我々はできる限り単純な説明を探そうとする。/これは科学においては確かに正しいことである。科学理論は単純なほど、訴える力が大きいからである。天体の運動、潮汐、高空で放たれた物体が地表に落下する軌道など、いろいろな現象を考えてみよう。これらは、最初は非常に異なっているように見える。これらすべてを説明するためには、実に様々な原理が必要だと思われるだろう。いったい誰が、これらすべては一つの単純な原理で説明できると思うであろうか?/だが、重力の法則がまさにそれなのだ。(p.76)//
この最後の一文にいたって、何かちょっと感動してしまった。理科の授業で、誰でも知っていることなんだけど。
ちなみに、この一節は、このあと、人間の行動をすべて「利己主義」の観点から説明することは、それが単純な法則であるだけに非常に魅力的だが、間違っている、というふうに続く(道徳哲学の本だからね)。なぜ間違っているかというその理路は、一歩一歩丁寧に、詳細に論じられるので、納得するしかない。その筋道の立て方が、この本の見事なところ。

掃除をする身体

昨夜、突然霊感が下りてきて、小説のパーツになりそうなシーンを思いついたので、別に長編小説に仕上げるつもりもないのだけれど、せっかくだから、さっきちょっと二つ三つのシークエンスをスケッチとして書いてみた。書きながら自分でもちょっと興奮した。
ワーキングタイトルは「3P妄想」というのだが(笑)。

*      *      *      *

まあそんなおふざけはともかく、だいぶ前から「トイレ本」としてちびちび読んでいた『橋本治内田樹』(ちくま文庫)読了。
中身はねえ、まあ橋本治が自由すぎるというか、かなりアレな人なので、ほとんど話が噛み合っていなくて、おたがいの受け答えが全部ずれる(笑)。
さすがの「受け身の達人」内田樹も困りっぱなしという感じで、対談内容としては、やくたいもないもの、というしかないのだけれど、しかしさすがに橋本治は天才なので、ところどころで面白いことを言う。
それをいくつか書き留めてみる。
(と思ったら、ほとんど忘れてしまっていて、今ぱらぱらとめくってもどれだったか思い出せない。とりあえずすぐ出てくるものだけにして、おいおい書き足していこう)

//橋本 そうなんです。人は死んだあとじゃないと、論じられないですよ〔中略〕だって、俺、人を論じるときは、必ずその人は死んだことにするんですもん(笑)〔中略〕僕が解説を書くということは、評価が定着しているものであるという前提に立たないかぎりできないから、それはとりあえず殺すんです。だから人を論ずるというのは、いっぺん殺すことだというのがあって、微妙に怖いんです。(p.207-208)//

//橋本 僕はね、なんだか議論とか論争がわかんないんですよ。ぜんぜん違う考えの人を説得しようとするのって無駄じゃない? って思っちゃうんですよ。(p.164)//

//橋本 ・・・掃除をする身体がどこかに行っちゃったんですよね。〔中略〕ずーっと原稿を書き続けるという身体はあるんですよ。原稿を書き続ける身体だけあって他の機能はどんどんどんどんなくなっていくわけですよ。・・・とりあえず掃除をしなくちゃと思って。でも二十分やるともう駄目なんですよ。・・・二週間くらいやって、やっと掃除のできる体というのが、戻ったんですよ。(p.299)//
 ↑この感覚、すごくよくわかる。
 僕は逆に原稿を書く身体とか、研究する身体というのがなくなった(笑)

//橋本 おかしいのはね、大衆化というのは、どうもそういうものらしいんですよね。・・・一昔前ね、拒食症とか、摂食障害になる人というのは、ちょっと美人だったんですよ。・・・ちょっと美人だから、「もうちょっと頑張れば」というのでやって、落とし穴にはまるわけですよ。それでダイエットが一般的になってからは、「あなたは美人ではないのだから、“もうちょっと”で頑張ってもしょうがないのに、なぜ摂食障害になりました?」という種類の人が増えてきちゃうんですよ。それって大衆化なんですよね。つまり美人、ちょっと美人の人が、すごい美人になろうとする上昇志向は、まあ、ありじゃないですか。美人じゃない人が、「ちょっとの美人にだったら自分はなれるかもしれない」というのはすでにまやかしが入っているんですよね。でもそれが大衆化じゃないですか。そうすると量がガーッと増えるから、産業としても成り立つのだけれど、問題もどんどん出てくる。でも産業として成り立っちゃうと問題もどんどん出ていると言うことに関しては、どこかで知らん顔してしまうんですよね。
インターネットの弊害というのも、そういう大衆化みたいなもので、本来参加しない方がいい人が、どんどん参加してきてしまうから、そのことで意味がなくなってしまうのかなあという気はする。こういうことを言ってはいけないのかなあ・・・・・・。(p.282-283)//
 ↑最後、橋本さん本人も言っているように、「こういうこと」はエリート主義思想につながるので、確かになかなか「言ってはいけない」種類の言説なのだが、しかしアマゾンのレビューなんかを見ていると、明らかに「こういう人がこの本について何かを言ってはいかんだろう」というのが混じっているので、つい深くうなずいてしまった。言説空間の大衆化というか、本来「民主主義的」である必要のない空間にまである種の「民主主義」が成立してしまうというのがインターネットのもたらした事態だと思うが、それがときどきなんともやりきれない思いを抱かせるのである。

なるほど傑作!ダルタニャン物語第1部

しばらく前から『ダルタニャン物語』の第1巻と第2巻、いわゆる『三銃士』の物語を読んでいたのだが、今朝、息子を歯医者に連れて行って治療をまっているあいだに読み終えた。
『三銃士』は子供の頃に福音館書店の上下二巻本で読んだきりなのだが、今回読んであらためてうなったなあ。
アレクサンドル・デュマの物語作者としての腕前はもう本当にすごい。これが19世紀前半の小説なのか。今読んでも十分に胸が躍るストーリーの運びとハイスピードな展開、ユーモラスで愛嬌のある登場人物たち。
唯一、何だろうこれは、と思ったのは第2巻「妖婦ミレディーの秘密」の初めのところで、ダルタニャンがミレディーに夢中になって惚れてしまうところ。こういうのってちょっとよくわからなかったな。
ミレディーがどれほど魅力的なのかがあんまりそれまで書き込まれていなかったからな。
美人で見た目はいかにも清らかな乙女に見えるということしか書かれていないし、そもそもどれほどの悪女なのか(どんな悪いことをしてきたのか)ということも、第1巻ではそんなに書かれていないんだよね。
ミレディーの魅力(とその悪人ぶり)の本領が発揮されるのはむしろその後、ダルタニャンとの一件があった後の、第2巻中盤以降なのだった。
ここからあとの展開はもう怒涛というか、見事に読者を引っ張ってくれる。ドキドキしながら一気に読まされる。
鈴木力衛の翻訳がまた見事。古さを感じさせない、というよりも適度に古めかしいのだけれど、そこがぴったりはまる感じで、しかもまったく読みにくさがなく、これにも驚いた。

このソフィー・マルソーはよい

DVDで「アントニー・ジマー」鑑賞。
このソフィー・マルソーはよい。
ソフィー・マルソーって作品によってだいぶ違う感じがあるのだが、ここに出てくるソフィーは実に魅力的。
話は、ちょっとそんなことってあるもんかい、てな終わり方なんだが、雰囲気でとにかく見せきる。
イヴァン・アタルも好きな俳優なので(「哀しみのスパイ」がいい)十分楽しんだ。
これ全然知らなかったので、ちょっと調べたら、日本劇場未公開なんだね。DVDだけ発売か。いい映画だと思うんだけどね。
ついでに「哀しみのスパイ」もDVDになるといいんだが。
エリック・ロシャンってまったくDVDがないんだな。

今週から夏休み

DVDで『ポンパドゥール夫人――ルイ15世を支配した女』(監督ロバン・ダヴィ)というのを見た。
これは映画なのか、むしろやたら長いから(2枚組みで計194分)テレビ放映されたドラマか何かなのかもしれない。
あまり期待していなかったのだが、これがなんと面白かったのだ。
ついつい耽ってしまって(本なら読み耽るというところだが、映画だと何というのだろう。見耽る?)、この長いのを、お昼ご飯の休憩を挟んで、一気に見てしまった。
なぜか3回ほど変にドラマチックな「ジャジャーン」という感じの効果音楽が入るところがあって(たとえば第1部の終わりなど)、そこの音楽だけ浮いているが、ほかはクラヴサンなどの当時の音楽が鳴り響き、ストーリーにもだれるところがなく、18世紀のヴェルサイユ宮殿の世界に浸らせてもらった。
ヒロインのエレーヌ・ド・フジュロルがきれいでかわいくて魅力的。
どの程度史実に忠実なのかは不勉強な人間で知らないが、啓蒙主義が台頭していたアンシャン・レジーム時代の王宮の物語ということで、いろいろと考えさせられながら見入っていた。

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注文していた本が届く。
薬師院仁志社会主義の誤解を解く』(光文社新書
白戸圭一『日本人のためのアフリカ入門』(ちくま新書
島田裕巳『教養としての世界宗教事件史』(河出ブックス)
この3冊は、ちょっといろいろと勉強しようと思って入門書的に買った。
薬師院氏の本は以前『日本とフランス 二つの民主主義』を読んで面白かったので、2冊目。
ほかもぱらぱらとめくってみたが、どれも面白そうだ。
ほかに小説が4冊。
1冊は単なる趣味というか、この人の小説を1冊も読んだことがなかったので、
丸谷才一『笹まくら』(新潮文庫
そのほか、ちょっと新感覚派というのでもないのだけれど、昭和モダニズムについて調べているので、その関係で、
川端康成『水晶幻想 禽獣』(講談社文芸文庫
横光利一『上海』(岩波文庫
横光利一『機械・春は馬車に乗って』(新潮文庫
どれもぱらっと書き出しを読んでみたのだが、この頃の小説の書き出しというのは、どれも自由というか、非常にノンシャランにすらっと書き出しているようでいて、言葉のリズムとか語の選択、イメージの浮かばせ方でふいっと世界をつくってしまう、その感覚がうまいと思う。
とくに川端は、ことばは易しいのに、選び方は見事というか、巧みなポエジーがある。
そのまま引き込まれてすいすい読んでしまいそうになる。

どれから読もうかな。

認知症、振り込め詐欺、無洗米

造語能力というのはどんな言語にもあるものだが、日本語の造語のセンスというか、作り方が、なんか自分の感覚とずれていると感じることが数年前から多くなった気がする。
その最初が、順番はあまり覚えていないが、「認知症」だったと思う。
これはその前は「(老人性)痴呆症」と呼ばれていたもので、庶民の遠慮のない言葉遣いでは「ボケ老人」と言われたりするものだ。
これが「認知症」に変わったものだが、これではなんのことかよくわからないと思ったのは僕だけだろうか。
「〜症」というのは、何かの症状が出る、その症状を表す言葉が「〜」の部分に入るのがふつうだと僕は思っていたから、「認知症」って、ああそう、認知できるんだったらいいんじゃない、というのが素直な反応なのだ。
「認知不全症」ならわかる。(あるいは「認知障害」とか)

振り込め詐欺」はちょっと理由が違うかもしれないが、「振り込め」という命令形と「詐欺」という名詞の接続で造語するという点に違和感がある。
「振り込み詐欺」なら違和感がない。(ただしこれだと、振り込んで詐欺を働く、つまり騙す側が振り込んでいるかのように読めてしまう)
これはその当時、同じような趣旨の投書を新聞で読んだことがある。その通りだと共感したが、残念ながら、大勢を覆すには至らず、この気持ち悪い造語が定着してしまった。

「無洗米」も出てきた当初から、気持ち悪かったものの一つで、とにかく意味不明である。
このまま素直に解釈すれば、「洗っていない米」の意味だと思うのだが、これが実は「洗わなくてもいい米」すなわちもうすでに「洗っている米」(ある種の技術的なやり方で)のことだというのだから、奇奇怪怪である。
しかし、我が家では、ここ数年もうもっぱらこのお米の世話になっているので、ご飯をしかけようと袋を取り出すたび、この表記を目にしなければならないのが残念である。